Persona3 Creators Long Interview----about Death and Tie [1]
翻设定集的时候看到后面又这么一篇文章。想看看文章里有没有自己想找的东西,就先翻译着看看吧。总共有六页希望自己能整完,目前打算是分六次。内容有严重剧透,但我觉得也没有无聊到没玩过游戏的人来看游戏采访的吧(笑
Persona3 Creators Long Interview----about Death and Tie
(资料图片)
「ペルソナ」シリーズの新しい地平を切り拓いたクリエイターは、逃れ得ぬ死をいかに見つめ、何を思い、何を願うのか。赤裸々な言葉の狭間から立ち昇る朧な影を感じ取ってほしい。
//开创了persona新起点的创作者们,关于无法逃避的死亡,是怎么想的,又希望着什么?我想让你感受从这些赤裸的言辞间升起的朦胧影像。//
メメント・モリ(死を思え)
memento mori,拉丁短语,铭记汝将亡
――いきなりですが、勝利を否定された最後の戦いの意味は?
橋野桂 (以下, 橋野): 「ラストバトルでの勝利はどのような意味を持つのか?」ですか。 絶対に勝てないニュクスすなわち死との戦いというのは、プレイヤーが契約をもとに入れられた『ペルソナ3』という装置の中で、絶対に逃れられない死に挑戦してみる、ということです。 誤解を恐れずに言うと、バンジージャンプなんです。 ゲームの冒頭で足を縛られて、跳んでみる。 ゲームでは、この主人公が死んだことをはっきりとは言っていないのだけれども、 彼の物語は完全に終わってしまっている。でも、プレイヤーは死んでいない。つまり、ゲームを装置として、 いつかは死んでしまうということを体験してみてください、ということなんです。そうした、死の疑似体験を経て、現実の中で死について、生について考えてみてほしい。俺たちも、家族を失ったこともあるし、そういうことを体験したこともあるけれど、まだ30歳を過ぎたくらいですし、死とか生について説教なんかできない、と思っています。
//虽然这个问题有点突然,但你认为在胜利被否认的最后一场战斗的意义是什么?
橋野桂 (以下, 橋野): “最后一场战斗胜利的意义吗”吗?那应该是,试着挑战绝对无法逃脱的死亡,绝对无法战胜的Nyx,即与死亡的战斗,在persona3这个游戏中,玩家用契约的形式来进行这种挑战。不怕误解的说,就像是蹦极。在游戏的开头,你的腿被绑住,但要试着跳下去。游戏中,虽然没有明确的说主人公已经死了,他的故事也已经完全结束了。但是,玩家本人可并没有死。总之,玩家是在用游戏来体验总会来临的死亡。我希望能通过这样的死亡模拟体验,让玩家思考现实中的生与死。我们也曾失去了亲人,即使有过这样的体验,但我们只有30多岁,所以我觉得我们没有资格高谈阔论对生和死的问题。只是想让人们去用游戏体验这样的感悟//
――コミュニティキャラクター(以下、コミュキャラクター)である余命いくばくもない青年の書く物語は、ゲームに込められた。生と死に対する作り手のメッセージなんでしょうか?
橋野: 彼の書く物語は、彼自身の生に対する価値観であって、あの価値観がゲーム全体を貫いているわけではない。以前、ある雑誌で、いろいろな人がどのように死にたいかということについて語るという特集があったのだけれど、 皆バラバラでした。 でも、好きな人、 家族に見守られて死にたい、というのが多かったかな。
//游戏里有个社群,是那个将不久于人世的青年写书的故事。这个故事是要传达给玩家关于生和死的‘创作者的消息’吗?
橋野:他写书的故事是他自己对生的价值观,而不是贯穿整个游戏的价值观。曾经有一本杂志专栏,谈论许多人想要以何种方式离开人世,大家观点都很不一样。但很多人都想在喜欢的人,家人的注视下离去。//
――その、誰かに看取られたいという気持ちは、どうして生まれるのでしょう?
橋野: 一般論として、単純に恐いからでしょう。 ひとりで去ってしまうことが。たとえば、臨終の間に僕がいたとしたら、それは寂しいですよね。皆そこにいて、僕は先に逝くわけですから。これは、寂しい。いちばん最初に飲み会から帰らなきゃいけない、みたいな。
//那,为什么人们想在临终时得到他人的陪伴呢?
橋野:一般来说,这通常是因为他们害怕。要独自离开这个世界的话。举个例子,假如我临终之际,我一个人离开了这个世界,那肯定是很寂寞的吧。大家都还在,可我已经先走了。这实在是太孤独了。就像第一个不得不从酒局上离开似的。//
――終わっちゃうのか、これで。
橋野:そうそう。なおかつ、 「どうだった? あのあと」って聞けないわけですから。そういう意味で、未知なるものへの恐さっていうのは、今に始まったことじゃなくて、ずっとあることですよね。そう考えると、やっばり、自分とちゃんと関係ができていて、看取ってくれる相手の中に自分がちゃんと生きている感覚・・・・・・ゲームだとコミュニティ (以下、 コミュ) とか絆とか言ってるんですけど・・・ 僕が死んでも、僕が生きた証とか価値が、想いや愛やあるいは思想だとかが根づいている。それを前提に看取られたら、ま、死んだとしてもいいかと・・・・。
//那接下来就结束了吗?到这里?
橋野:就是这样。而且你也不能问“怎么样了啊?在我走了之后”。从这个意义上说,对未知的恐惧并不新鲜,而是一直存在的东西。这样考虑的话,果然还是觉得会觉得你和自己有点关系,你仍活在那些照顾你的人身上……在游戏中,我们叫他community,或是羁绊……即使我死了, 我活过的证明和价值仍将扎根于我的情感,爱或是思想。如果在这个前提下被目睹死去,嗯,就算死了也可以吧……//
――消えちゃうわけじゃない?
橋野 : 消えちゃうわけじゃない。喪失感というものが薄れるような気がする。 ······わからないけれど。僕も含めて、宗教を持たない人たちは、死によってすべてを失ってしまう。死は、単純にして完全な喪失。そういうのを感じている人ほど、それを超越した、人同士の愛に包まれて生を終えたいと思うんじゃないかな。ま、あと5年とか10年したら、 また全然違う考えに変 わると思うんですけど。ははは。だから、生と死に関しては語れない、その資格がない、という気がしている。でも、ひとつ言えるのは、そういう日が来るということをまったく考えない人たちに、そういう日は必ず来るんだよ、ということを教えられる年代ではある、と。
//这些留下的东西不会消失吗?
桥野 : 它不会消失。 我觉得这种丧失感会被淡化。……虽然我不太清楚。但像我这样没有宗教信仰的人,会在死后会失去一切。死亡就是简单而完全的丧失。越是感受到这一点的人,越是想超越它,被人们的爱包围着结束生命吧。虽然,也许五年或十年后,我的想法将完全改变。哈哈哈。所以,我觉得我没有资格讨论生与死。但是,我唯一可以说的是,现在是一个能让完全不考虑这一天到来的人们,能知道这一天一定会到来的时代。//
――副島さんはどうですか?
副島成記(以下、 副島): そうですね。 ゲームとしては、 メインのシナリオでは死の疑似体験をしたりしますし、 コミュキャラクターもパーティキャラクターもいろいろ言いますけど、あまり共通してないと思うんですよね。 死とはこういうものですよとか、 生きるとはこういうことですよとか。 「ペルソナ3」で語られるのは、ひとつ の思想というか、 誰かひとりの書き手の思想ではない んです。 キャラクターそれぞれ、こういう考え方もあるし、ああいう考え方もあるというような、そういう 考え方がたくさん書いてあるだけだなんです。 それは、 現実でもそうですよね。 だから、 「ペルソナ3」 をプレイして、いろいろなセリフを聞いて、 疑似体験してみて、それから自分の周りにいる人や自分を振り返ってみて、さてどう考えてみたらいいかな、というきっかけを提供するものにとどめてあります。 それと、さっきの看取られるという話ですが、 自分は、看取られたいとはあまり思っていなくて、いちばん最後に死にたいと思ってます。
//副岛怎么想呢?
副島成記(以下简称副岛):是啊。作为游戏而言,主要的剧情是对死的虚拟体验,社群人物和伙伴人物(这个不清楚是啥意思)也说了很多,不过,我不想太共同哟。死亡就是这样的,活着就是这样的。在“persona3“中所表达的并不是某个特定的思想或某个创作者的思想。每个角色都有他们自己的想法和观点。只是存在着许多这样的观点而已。这在现实中也是如此。所以,玩“persona3”提供了这样一个机会,让玩家听取各种对白,进行虚拟的经历之后,反思自己周围的人和事情,探索应该如何有所思考。哦,还有就是之前讨论过的陪伴临终的话题,我并不是非常希望别人在我去世时在场,我想最后一个离开的一定是我。//
――皆を看取ってから、ですか?
副島:皆を看取ってから死にたい。
橋野:そうなの?
副島:残る人が、すごいかわいそう。もちろん、 愛されてるのが前提ですけど。
橋野:それさ、死にかけたことがないからだよ。
副島:死にかけたこと、 あるんですか?
橋野:自分は、4~5年前に麻疹(はしか) にかかっさて、40度以上の熱が続いて、裏では家族が呼ばれて ・・・・・・・という状況で、 そばにはずっと奥さんがついていてくれて。熱がすごいので、痛みとかあんまり感じないんですよ。で、死ぬときって、こんな感じかなって。奥さんがそばにいてくれるだけで、あ、これで死んでも別にいいか、って。
//在见证了所有人的离去后,再走吗?
副島: 是的,我想在照看了所有人之后再离去。
橋野:这样吗?
副島:但最后留下来的人就太可怜了。当然,前提是他是被爱着的。
橋野: 那是因为你从未经历过濒死的情况。
副島: 那你曾经接近过死亡吗?
橋野: 自己在4~5年前染上了麻疹,持续发高烧40度以上,家里的人都很担心......不过我妻子一直陪伴在我的身旁。由于我高烧得很厉害,也基本上感觉不到什么疼痛。因此,当我真的准备要死的时候,感觉就像这样。只要我的妻子一直在我的身边,即使我现在死掉也无所谓。//
――覚悟ができた感じですか?
橋野: 覚悟っていうか、まさか麻疹で死んでしまうと は思ってなかったけれど。 老人になったとき、こういう環境で死ぬのも、別にいいか、ありか、と。 ものすごい自分本位だけどね。
//是感觉做好了觉悟是吗?
橋野: 并不是做好了觉悟,也没有想到自己会因为麻疹而死去。只是觉得当我变老后,在这样的环境下死亡,对我来说也无所谓或者说还可以接受,虽然这很自私。//
以下是一些感想
“对死亡的虚拟体验”是种挺有意思的说法呢。整个游戏可以说是充满了死亡,社群间的关系也通过死亡或者离别这种事情而进展着。玩的时候被东拼西凑的剧透了,一开始对结局也挺迷糊的,决战的时候以为主角死了,然后又有在学校里和所有社群的剧情,以为是HappyEnd,到了天台上才发现是BadEnd。所以玩的时候如果说作为死亡的主体,“对死亡的虚拟体验”这样的感觉并没有多少,更多的是对周边角色遭遇或者周边角色自身的死亡带来的冲击。玩到后面的时候就像太阳社群所说的那样,一边期待着故事的进展一边又害怕着故事的结束。这种自指还蛮有意思的呢。
头图来源:https://www.deviantart.com/auraian/art/Persona-3-13-472279985